昭和46年6月17日夜のご理解

※途中切れしてます

ご理解という、ただいま久冨先生のお話を頂いてから、思わせて頂くことといい、信心とはただ部分的なおかげ、痛いところが治ったとか、または、困ったことがお取次ぎを頂いておかげになった、成就したといったようなことではなくて、そういうことは、もう言わば神様の目からご覧になれば、もう取るに足らないおかげであると。

 私どもがそういうおかげによって神様が喜んでくださるというのではなくて、本当の意味において、例えば、久冨先生が四十何年間ですね、椛目合楽を通して縁?を頂かれておかげを受けたことは、ほんとに様々なおかげを頂いてきておるけれども、その自分のおかげを通して、いわゆる全部の事柄を通して、あれもおかげであったな、これもおかげであったなと分かってきたとこう言うておられる。

 だからね、神様が喜んでくださるということは、私どもの日常生活の中にすべてがおかげと分かる。自分の都合良くなったことだけがおかげではなくて、都合の悪いこと、それは痛いことも苦しいことも腹の立つこともあろうけれども、それとても、神様のおかげとして頂けれる信心。それを結局生活のために信心をしておるのではなくて、信心そのもののために生活のすべてがあると分からせて頂くところからです。

 今朝のご理解から頂きますと、いわゆる天地の親神様が私どもにともどもに助かりたい、いわゆるあいよかけよで立ち行くとか、親のことは子が頼み、子のことは親が頼んで、親子が一緒に助かりおうて行こうというのは、そういうことだと。

 そこで私どもがね、言うならどういう生き方、そういう例えば信心の本当の意味においてのそれが理想なのです。それが神も助かられ、私どもも助かること、私どもも楽になることなら、神様も楽になってくださる。どんな場合でもおかげとして頂けるんですから。ですから、そのーあいよかけよで立ち行くというようなことをね、私どもがすべての時にすべての場合に、すべての事柄をです、神様に委ねるという、お任せするという心。

 私は今朝のご理解を頂いてから、     がここにあると思うてさせて頂いておるんですけど、あいよかけよで立ち行くということは、氏子が神様任せになり、神様が氏子任せになってくださることでありますと。いわゆる、神様も助かってくださり、私どもも助かるという生き方はね、私どもがまず神様任せになる心を作る。そこにはね、神様が氏子任せになってくださるというほどしのおかげが受けられる。

 人間の本当の幸せの元というかね、言わば不自由することがない、難儀をすることがない。いわゆる神様の働き、いわゆる無尽蔵と言うか無限大と言うか、そういう無限大の働きの中に私どもが一歩足を踏み入れるという信心から、初めてあいよかけよで立ち行くとはそういうことだと。

 今までは何かあちらからもお手伝いに来て頂いたからこっちからもお手伝いに行って返さんならん。そういうことがあいよかけよのように思うておったですね。言わば田植えなら田植えがあるあそこはもう加勢しとるけんでうちも加勢に行かにゃん。たったそのくらいのこと、それがあいよかけよのように思うておった。決してそんなこっちゃない。

 あいよかけよというのは、私どもがもう神様任せになるという信心修行がでけてね、神様がいよいよ氏子任せになってくださるというほどしのおかげを受けた時、初めてあいよかけよの本当の意味の働き。神様も助かってくださりゃあ、私どもも助かっておる。難儀ということがない、困るということがないという世界が顕現されてくる、現されてくる。
 そういう時、初めて神様と氏子が一緒に助かり合うた時だという、私は今日は、そのことを非常にありがたいことだ、深いことだと。私は、教団中の方たちにも、中に、ここを分かっておる人が何人おるだろうかと私は思うたんです。ただ、あいよかけよと言うておればよい?田植えに加勢してもろうたけんこっちも行かにゃんという。あい    だからというような軽い程度であいよかけよを言うておるのじゃなかろうかとこう思うですね。

 あいよかけよとは、ほんとに私どもが助かるということ、本当の意味において。そこには本当の意味において神様が助かってござる。それには私どもがね、例えば、久冨先生が何十年かをかけて頂いてこられたおかげ、それは部分的なおかげである。あの時はもうない命を助けて頂いた。あの時のことを思うたら本当に、身の上?真っ黒な中を通り抜けさせて頂いた。それがおかげであると思うておったがです、やっぱりおかげに間違いがない。

 けれどもそれは頼んでおかげを受けたというだけであって、神様の助かりには繋がってはいないという。けれども、それもやはり大事なんですね。そういう神様の働きは素晴らしいなあと、神様から手をかけてもらうとこんなおかげが受けられる、神様から手を離されるとこういう結果になるといったようなことを、一つ、体験させて頂くということもありがたいけれども、そこからだんだん、いわゆる信心、頂いておる信心のために生活のすべてがある。

 難儀もありゃあ苦労もある、言うならば暑いことも寒いことも信心のためにあるんだと分かる時に、その暑いことも寒いことも、その信心が大きく育っていくということだけにしかならんのです。そこから段々どういうところを?分からせられるかと言うとです。もう今朝から私ありがたいと思ったことは、日田の綾部さんがどういうことからか知らんけれども、昨日あちらで信心の共励会であった。

 「もうほんっとに親先生、人間が無力であるということを、ほんとにここに分かりかけてきた」という意味のことをお届けしておられます。人間が本当に無力であるということが分かる、障子一重がままならぬ人の身であるということがわかるところから、神様に委ねなければ仕方がないのである。実を言うたら。もう神様に委ねるというより他に道がないのである。

 それを難儀の時、困った時だけ委ねるということではいけない。すべてのことの中に神様に委ねさせてもらう、お任せさせてもらうというところから、いわゆるお任せの生活、安心の生活、喜びの生活がある。そういう信心が続けられていくところからね、(途中切れ)